ストーリー
2020 年 7 月 22 日
Apple、クリエイター、障がい者の権利を訴える活動家と共に、米国障がい者法制定30周年を考える
Appleは創立以来、誰もが使えるようにデザインされた製品やサービスを通じて、パワフルなテクノロジーの民主化を推し進める先駆者でありました。VoiceOver、スピーチ、音声コントロール、スイッチコントロール、さらにはSiriといったように、アクセシビリティ機能が組み込まれ、Appleのエコシステムと共に使えるようにデザインされています。
「誰でも使えるテクノロジーというものは実に明確です」と語る Dean Hudson は、Appleのアクセシビリティ技術のエバンジェリストで、視覚障がいや弱視の人々が iPhone や Mac を操作できすようにするスクリーンリーダー、すなわちVoiceOver を担当した最初のチームメンバーの一人でもあります。「私が iPhone を使ってやれることと、障がいを持たない他の誰かができることの間を分け隔てるものがあってはならないのです」と彼は続けます。
米国障がい者法(障がいをもつアメリカ人法;ADA)制定30周年を記念し、障がい者の権利を訴える社会活動に取り組んでいるアクティビストおよびアーティストが、前出のHudsonと共に、同法制定後の道のり、障がいを持つ人々が使うテクノロジー、障がいについて社会がさらに取り組んでいく必要があることについて、各々の考えを共有しました。それぞれのストーリーを以下でお伝えします。
私が子どもの頃、両親は目の見えない子どもの親たちを対象とする支援グループに大きく関わっていました。彼らはその時にADAについて学んだのです。ADAという言葉は聞くようになりましたが、その意味を私が本当に理解したのは、もっと後、それなりの年齢になってからです。
歴史が示しているのは、人種、肌の色、宗教、障がいを理由にした差別から市民を守るためには、法律が制定される必要があるということです。公民権法は、平等を推進することによってADA制定への道を開きました。障がいを持つアフリカ系アメリカ人である私は、この2つの法律を等しく尊重します。どちらの法律も、アメリカ人を差別から守るという意味で同じくらい正当であり重要です。
父が私に iPod touch をくれた日のことは今でも憶えていて、VoiceOverの使い方は自分で覚えたのを思い出します。毎日この機能が使えることをとても嬉しく思いました。
自分のアルバム “Now Hear This” and “Outta the Box” を制作している時も、楽譜を起こしている時も、作曲やアレンジに取り組んでいる時も、作業の内容が何であれ、常に様々なデバイスやアプリケーションを使い分けながら取り組んでいます。
音楽を録音する準備ができたら、自分の MacBook Pro で Logic Pro X を使います。大抵はドラムスを最初に録音して、次にベースを加え、それから必要なものをどんどん追加していきます。VoiceOverを有効にすれば、Logic の中を本当に自由に動き回って操作できるんですよ。曲が完成したらオーディオデータとして書き出します。それから、Dancing Dots 社の Lime Aloud というソフトウェアを使って点字楽譜を起こします。このソフトウェアは点字楽譜を作成できるだけでなく、自分のバンドメンバー用に通常の楽譜も印刷できます。
目の見えない人が遭遇するあらゆる困難をすべてテクノロジーが解決してくれるわけではありませんが、日常生活で、音楽制作で、あるいは学生を続ける上で必要な装置やアプリケーションにアクセスできることは、障がいを持つすべてのアメリカ人の権利です。
私が育ったコミュニティは、他とは違い比較的インクルーシブな環境でした。私がインストラクターからスキーを教わったのは、目が見えない場合どうやってスキーで滑るか?なんて思うに至らないほど幼い頃でした。その質問は決して「目の見えない人にそれができるか?」ではなく「どうすれば目の見えない人がそれをやれるか?」だったのです。
聴覚と視覚の両方に障がいを抱えた学生としてカレッジで過ごしていた頃、私は米国障がい者法(ADA)を盾に、ハイテク企業に対して各種デジタルサービスのアクセシビリティを向上して障がい者でも使えるようにするよう主張している人々を目の当たりにしました。彼らの活動の成功に感動し刺激を受けた私は、彼らと活動を共にすることにしました。当時も、そして今現在も、デジタルの世界では数多くの壁に直面してきました。その原因は私の障がいではなく、障がい者のアクセシビリティを軽く見るハイテク開発者たちの姿勢にありました。
2010年、私は Harvard Law School 初の聴覚と視覚の両方に障がいを抱えた学生となりました。アクセシビリティ機能が組み込まれたテクノロジーのおかげで、様々な授業に参加して法律調査も実施することができました。そして、私の研究がADAとハイテクに主眼を置いたものになるのはごく自然なことでした。2年生の時、合衆国マサチューセッツ連邦地方裁判所が、ADAがオンラインビジネスにも適用されることを裁定しました。これには本当にやった!という思いでした。2013年、私は卒業して、カリフォルニア州弁護士の仲間入りを果たし、ADA関連の訴訟を扱うようになりました。
私は全米盲人連盟(National Federation of the Blind)を代表して、目の見えない読者の電子書籍その他のドキュメントの購読·閲覧を阻むがごとくライブラリを設計した企業に対する訴訟を担当したことがあります。この訴訟では、合衆国第二巡回裁判所初の判決として、米国では2例目ですが、ADAが約束する平等がオンラインの仮想的な場所にも適用されるという判例を確立しました。以来、私たちはADAをオンラインでも推し進めていくような訴訟をいくつも扱ってきました。
ADA関連の訴訟を数年間経験した後、私は活動の軸をコンサルティング、講演、執筆に移しました。自叙伝の “Haben: The Deafblind Woman Who Conquered Harvard Law” では、広く浸透した障がいを持つ人々は障がいを持たない人々より劣っていると考える(エイブルイズム;Able-ism)について伝えています。エイブルイズムの正体を学べば、これを捕らえて排除できるようになります。
私が7歳の時に、母親がポラロイドカメラを買ってくれて、それで自宅の庭で撮影会を催したりしていました。自分はカメラの前に立つようなキャリアを目指す運命にあるのだと自覚したのがその頃でした。けれど今でも、障がいのある人物を、広告、映画、テレビ番組、その他の大衆文化のメディアで取り上げるのは避けられています。
ロサンゼルスに来たのは10年前で、仲間になってネットワークを作ろうと言ってくれた人々もいました。色々なイベントに出かける努力はするのですが、文字どおり、イベント会場に入れないのです。車椅子での利用に対応していないからでした。障がい者を描写した映画は何本もありますが、その役を障害者が演じたことはありません。障がいのある私たちは、この現象を “cripping up” と呼んでいます。このように取り残された人々は、本物の描写の欠如を訴えることで応援してはもらえますが、障がいの描写の欠如について話す人は誰もいません。それが、私が Accessible Hollywood を始めた理由です。そして、こうした活動は、私のように障がいを持つ人々の成長と暮らしに欠かせないものとなっています。
私はビジネスウーマンです。黒人の障がい者である私が自業主として運営している事業を全て自分でやるのが難しくなっています。神経管障がいである二分脊椎を抱えて腰から下が麻痺しているので、何をするにも両手を使います。車椅子を押したり、着替えなどの日常的な作業、テキスト入力などは、すべて両手でやれます。しかし、iPhoneでコピーした内容をMacにペーストしたり、HomePodにリマインダーを設定したり、音声入力を使ったり、あるいは「Hey Siri、このミーティングを予定に入れて」と言ったり、Siriショートカットを使って複数の作業を声だけで素早く完了できたりなど、自宅の中を Appleのデバイスや機能で満たすことで、たくさんの時間、いくつもの思考プロセス、両手に掛かるエネルギーを節約できるんです。
複数の障がいを抱える私のような人間でも、テクノロジーを活用するだけで自分だけの帝国を築くことができるだけでなく、毎日の生活がよりらくにります。私のように黒人で障がいのある女性たちに、見られること、受け入れられることを感じてほしいです。過去10年間、私は障がいを抱えながら、モデルや俳優の仕事をたくさんこなしました。2018年には、ハリウッドのエンターテインメント業界における私のインクルージョンへの寄与が認められ、黒人女性として初めてクリストファー·リーヴ俳優奨学金(Christopher Reeves Actor Scholarship)を授与されました。ハリウッドは今、本物の障がいを描写する多数の素晴らしい映画·テレビ作品を作るようになり正しい方向へと進み始めています。社会全体で障がいを克服すべく困難な仕事でも先に進めることを体現する役割を担ったようで謙遜しています。
1970年代の後半、兄弟が私にコンピュータのマニュアル本を読み、私はそれを入力してプログラムに仕上げていたものです。そうして画面上で何かが起きるのを本当に興味深く感じていました。カレッジではコンピュータサイエンス学部に進学しましたが、そこでは自分以外に誰かもう一人、画面に表示される内容を読んでくれる人間が必要でした。なぜなら、スクリーンリーダーがまだ存在しなかったからです。
Appleに入社したのは2006年のことです。私のチームが iPhoneのVoiceOver の開発に着手した時、iPhoneの画面をタッチした際には何が起きるのかといった事柄についてたくさんの研究が行われました。目が見えるユーザーであれば画面を見てタッチする場所を決められます。私の場合は、見えるようにするためにタッチしなければなりません。何度も繰り返して試行錯誤し、iPhoneで何か起動したい時には、画面上のどこでもいいのでダブルタップで実行するという、Safe Explore に辿り着きました。VoiceOverは iPhone 3G S と共に2009年にデビューを果たし、そこから少しずつ、本格的に多くの人々に使われるようになり、今では、視覚障害を持つ人々のみならず、あらゆるタイプの障がいを抱える人々がデバイスを使いこなす様子を目の当たりにするのは実に驚くべきことです。
今日、人々は様々な目的でテクノロジーを利用します。ある機能がAppleの製品の中でどのように機能すべきかについてはたくさんの意見がありますが、ひとつひとつの意見がとても貴重です。そしてそのような意見それぞれに目を向けることで、利用者がカスタマイズしやすい製品が生まれるのです。
例えば、四肢が麻痺しているので毎日24時間ヘルパーが付きっきりで生活の世話をしてもらう必要があった人が、スイッチコントロールのおかげで、今では自分でアパートを借りて自分一人で生活している、そんな人に出会うと、テクノロジーがもたらした新しい生活は人生を激変させるようなライフチェンジャーと言えるほど画期的な出来事であることが分かるでしょう。ADAの制定から30年の歳月を経た今、その恩恵は今回ご紹介したような結果として現れています。私自身は学校に通い、画面に表示されるコードを自分に読んでくれる人間を必要としましたが、今ではスクリーンリーダーに代表されるアクセシビリティのためのツールを利用することで、実際にエンジニアとして職を得ている人々もいます。そして彼らにとってこれはとてつもなく大きなことです。
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ADAの30周年記念の画像